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レディーボーデンの誘惑

2010.5.18

この間、八百屋のおにいちゃんと話していて盛り上がったのが、
昔、おいしかったアイスクリームの話。
ハーゲンダッツは衝撃だったよねという話から始まり、
その前はサーティワンだった。
それよりもっと前は、なんといってもレディボーデンだったよね、
そうそう、私たちってそういう世代!と思い切り盛り上がった。

ハーゲンダッツデビューは高校3年生になる春だったかな。
大阪、梅田に店ができて、「これはすごい高級アイスなんだ」と
流行に敏感な友達が教えてくれて、食べてみて、
そのクリームの味の濃さにびっくり。なんて贅沢なアイスなんだと思った。
トッピングに、クッキーとかアーモンドとかのせられるんだよね。
一番おいしいのがクッキーアンドクリームに、さらにクッキークランチをのせたバージョン。
250円、トッピングのせて300円だったかな。むっちゃ贅沢をしている気分でしたね。
カップアイスで食べるのがいい。

中学時代は夏休み、お金に余裕がある時はサーティワン。
ダークチェリーアイスと、チョコミントが好きだったかな。
これも150円の贅沢。2つをクッキーコーンにのせて食べる。
あんな狭い店の座席に並んでみんなで食べるのが、すごく幸せだった。

その前が、お客様のお持たせでいただく、
大型カップのレディーボーデン。CMのメロディだって未だに口ずさめる。
高級アイスといえば、これでしたね。
そのころ、アイスクリームコーンを紙パックで売っていることを知って、
母親が買ってきてくれるようになったんだ。で、あれなんていうんだっけ、
アイスを丸くくりぬくやつ。それこそハーゲンダッツやサーティーワンの店員は
それでかぽっとアイスをとって、コーンの上にのせてくれるんだけど。
ともかくそれで、丸くかぽっとアイスをのせて食べるのがおいしい。
ふつうのカップアイスとか、ソフトクリームとはまるで違うバニラの味がしっかりする、
そして乳製品そのものといった味は、そういう50円、100円のアイスには決してない
濃さで感動したんだよね。
もっと食べたいって思うんだけど、もちろんお腹を壊すからおかわりはだめ。
そのめったに食べられない感じと物足りない感じが、またアイスの高級感を高めていた。

ふだんは山崎パンの店先で買う50円アイスがおいしかったんですけどね。
レディボーデンは、特別なときしか食べられないものだった。
こうして振り返ってみると、アイスはどんどん大衆化してグルメ化したんだなあ。
いまやハーゲンダッツはスーパーの特売で178円とかで売っているときもあるし、
コンビニでは当たり前に並んでいるし、
サーティワンも、パステルカラーが大好きな年頃を過ぎると、見向きもしなくなった。
うちの近所の商店街にあるんだけどねえ、入る気がしないというか。
おばあちゃんたちが店先で食べているのが不思議な感じ。

子どもの頃のアイスクリームといえば、
そういえば、マンションの他の階に住んでいた、なにやら上品な感じのおばさんが、
出してくれた手作りアイスはむっちゃくちゃおいしかった。
高級アイスの初体験は、4歳か5歳のその記憶。
さくっとしていて、黄色いアイスを、スプーンですくって4回ぐらい、
ガラスの器に盛ってくれた。
ところどころ小さな氷の塊があって、それが口にあたってひんやりとして。
もちろん無添加だから、味が柔らかくて優しい。
子どもは実は味に敏感だから、こういうものが、
お店で売っている安いアイスとは全く別物だということがよく分かったんだと思う。
こういう世界があるのかと驚いた。
今までの人生の中で、最高においしかったのが、そのおばさんが出してくれたアイスクリームだった。

隣のおばちゃん

2010.4.22

若い頃、何か落ち込んで目の前の人生が重たくなったとき、
私はよく海に行った。ときどき、小さい頃に暮らしていた街へ行った。
大好きだった海岸、川、桜並木の小道、幼稚園。
その街には、そういう海があり川があり緑があって、
同じ年頃の友達がたくさんいた。そして、当時、大好きだったのが、
隣りに住む老夫婦。
たぶん、リタイヤして、子どもたちが独立したので、
マンションへと引っ越したのだろう。
そこのおばちゃんに可愛がってもらって、私は毎日のように
幼稚園から帰った後の時間を、その家で過ごした。
友達と遊んでいるか、おばちゃんちで好きなように過ごしているか。
何をしていたのか具体的には覚えていない。

たぶん、おばちゃんに幼稚園であったことやら自分で考えていること、
いろいろな話をしていたのだろう。
母は、いつも何かで心を忙しくしていて、私の言うことが上の空。
小さい妹もいたし、妹のことで気をとられていたことも多かったのだと思う。
それに、いつも私は何かしら失敗をしでかすらしく、
なんだか分からないうちに、母は爆発して私は怒鳴りつけられる。
機嫌がいい時には散歩もしてくれるんだけれど、それも妹が生まれるまでだったと思う。
私の、母との楽しい記憶は3歳までしかない。

それはともかく、隣のおばちゃんは、私のおばあちゃん代わりだった。
母方の祖父母は遠く新幹線に乗ってローカル線に乗り継いでいかなければ
会えなかったし、私たちが行くのはいつもお盆で、うんと年寄りの祖父母より
同年代のいとこたちと遊んでいる方が忙しくて、祖父母に何かしてもらったり
一緒に遊んだ記憶はない。アルバムをめくれば、うちに祖父母が泊まりにきて
一緒に観光地を巡ったことはあるみたいなんだけど、ほとんど何も記憶に残っていない。
父方のほうは、祖父はもう亡くなっていて、祖母が一人で暮らしていた。
こちらは遊んでもらった記憶がある。お手玉とか、おはじきとか教えてもらったし、
おばあちゃんの家というだけでうれしかったりしたものだ。
でも、それも、電車を乗り継いでいかなければ会えない距離で、
一人で勝手に遊びにいく、というわけにはいかなかった。

それで隣のおばちゃんだ。
おばちゃんは、パーマをかけた短いくるくるヘアで、染めて茶色い部分と白髪が混じっていた。
よぼよぼはしていなかったから、きっとまだ50代ぐらい。
私は幼稚園から帰ると、荷物を家に置いて、隣へ駆け出す。
「来たよー」とドアを開けると、おばちゃんが「あら、マリちゃんいらっしゃい」
とニコニコしながら迎えてくれる。そして、「今日は何があったん?」と
私の話をあれこれ聞いてくれる。私の話をちゃんと聞いてくる大人はおばちゃんぐらいだった。
いつもおやつを出してもらった気がする。
たぶん、あられとか、何かそういう茶色い和のお菓子。
家で出される、シャービックとかママゼリーとか、スナック菓子とかとは違っていた。
おしゃれなのじゃなくて、おばあちゃんの味のお菓子。

家もなんとなくおばあちゃんのニオイがして、何となく地味で
でもそれが落ち着いていて、私は安心してその空間にいることができた。
居間にはちゃぶ台があって、小さな白黒テレビがあった。
うちには、白黒テレビと交替したカラーテレビがあったから、
「この家ではまだ白黒なんだ」と子供心に驚いた記憶がある。
そう。おばちゃんちはいろんなことが遅れていた。
でも、そういう遅れている感じも、お年寄りらしくて、私はなんだか安心した。

落ち着いた大人になったおばあちゃんというのは、人を、特に子どもを安心させる。
ゆったりとしていて、急に怒りだしたり、饒舌に自分の話ばかりしたりしない。
ニコニコして、人の話を、それが子どものワケの分からない話でも、
相槌を打ちながら、聞いて話を返してくれる。
おばちゃんの家で叱られることはなかったし、私も悪さをしようとは思わなかった。
というか、何か悪いことをしようとして、それが見つかって叱られるというのではなくて、
私の場合、何かが母親の気に染まなくて叱られる。何が悪いのか分からなかった。
好き嫌いのことでしかられたらしいことは知っているんだけれど……。

おばちゃんが大好きだったから、引越して会えなくなるのがすごく寂しかった。
引越しが12月半ばに決まって、当時小学校1年生だった私は、
2学期が終わるまでの1週間を、おばちゃんちに泊まって、学期が終わるまで
当時の小学校に通うことに決まった時、私はわくわくした。
おばちゃんちの子になれる。
もちろん、家族と一緒に新しい家に行けないのは残念だったけれど、
大好きな街を離れるのが少しでも遅いのは嬉しかった。
その大事な1週間を私はあんまり覚えていない。
朝学校へいく時、隣の家から出て行くのが不思議な感じがしたことだけを覚えている。
私は当たり前のようにその家へ帰って「ただいま」と言う。それが変な感じだった。
親がいなくて寂しかったはずだけど、すごく寂しい思いをした記憶はない。
うちとはいろいろな習慣が違ったはずだけど、それで嫌だとかそういう記憶もない。
小さすぎたのかもしれない。いろんな違いを嫌だと思うほど私は成長していなかった。

子どもは、自分の意志ではなく変わっていく人生を止めることはできない。
でも、大人だって同じなのだ。自分の意志で変えられる要素がどれだけあるだろう。
こうだと思って選んだことも、思いもよらぬ結果をもたらすことはよくある。
事態を変えざるを得ないこともあるし、変えたくても変えられないこともある。
人生が、思い通りにならないのは、大人も子どもも同じなのだ。
でも、だからこそ、思いもよらないところから、幸せが降ってくる日もあって、
それを存分に味わい尽くしたいと願うのだ。

最初に読んだ本、日本昔話

2010.4.1

子どもの頃、親に読み聞かせをしてもらっていたことから
たぶん、何度も聞いた話をなぞるような形で読み始めたのが、
引越しの時に近所の人にもらったという赤い背表紙の『日本昔話』。
広辞苑みたいに分厚い本で、2段組。
そんな分厚い本を読んだのは、出てくるお話が大好きだったからだと思う。

家を出るときに親から大きな鉢をかぶせられ、いじめの対象にもなったけれど、
運命の男性に出会ったときには、ぱっくり割れて、たくさんの嫁入り道具が出てきて
幸せになった、鉢かづき姫。
求婚者に次から次へと無茶な難題をしかけて、結局誰も気に入らずに
月へ帰ってしまったかぐや姫
お姫様だけじゃなくて、力持ちや技ありの男たちもかっこよかった。
なにかといえばもちが出てくるので、それが食べたくてたまらなかったこともよく覚えている。
昔話には、不思議な安心感がある。
読んでいるだけで、ほっくりさせられて、あたたかい気持ちがこみ上げてくる。

小学校1年生のとき、そういう昔話を土台にして
おじいさんやら山やら動物たちやらが出てくる大きな絵を描いて、
コンクールで金賞を取った。これが絵画コンクールでの私の最高成績になるのだけれど、
そのぐらい、昔話には、イマジネーションを広げさせる懐の大きさがあったのだと思う。

たぶん、昔話には自分がどこからやってきたのか、
子どもが子どもなりに理解する手立てをくれるのだと思う。
大人になった今は、すっかり遠のいてしまった、遠い昔の話と自分がつながる感覚を
子どもは、きっと分かるのだと思う。


プールが苦手な子ども

2010.3.26

昨日、『天然コケッコー』というくらもちふさこ原作の映画を見ていて、
ふと、子どもの頃、なかなか泳げなかったことを思い出した。
水を見るのは好きだった。小さい頃は海の近くに住んでいて、
母親とよく散歩に行った。
小さな人気のない砂浜で、小さくできる波を見ながら、
遠く向こうにはアメリカがあるのかな、外国があるのかなと思っていた。
本当に小さな浜辺で、高度成長期が過ぎた後のそこは、もう泳ぎが禁止だった。
その海辺に行く道は川べりで、桜の木がたくさん植わっていて、
春は花見客でいっぱいになる。浅い水の川を眺めるのも好きだった。

ところが、小学校に入ると、泳ぎを覚えなければならなくなる。
まだ肌寒い6月の体育の時間、更衣室でドキドキしながら着替え、プールに入る。
1年生が覚えるのは、まず顔をつけること。
先生が竹刀を持って水面から5センチぐらい浮かせたあたりで固定し、
「この下をくぐるように」と言って、全員が順番にくぐっていく。
私は、水の中に顔を沈めるのが怖くて、ごまかせるときは、
端っこをくぐったふりをして、顔を水で濡らして水に潜ったふりをした。
同じように水が苦手な子たちと一緒に「怖いよねえ」と言い合っていた。

いつまでも泳ぎを覚えない私の連絡がたぶん行ったのだろう。
小学校の2年生から父親の車で10分ほどの市民プールの水泳教室に通わされた。
その頃にはなんとか顔をつけて泳ぎらしきものはできるようになっていたけれど、
息継ぎができないので、25メートルを泳ぎきることができなかった。
先生に「しんどいです」と泣き言を言いながら、当然免除してもらえず
何度も何度も顔を上げようと努力して、なんとかクロールで息継ぎをしながら泳げるようになった。
必死で顔をあげる私のクロールの息継ぎは、だからみっともない。
本当は顔を半分ぐらい水面に出して、さっと息を継げばスムーズに速く泳げるのだけれど、
とにかく必死で空気中の酸素を取り込もうとする私は顔を上げすぎてしまう。
まるで溺れている人のようだ、と友達からからかわれたことがあるぐらい。
でも、今考えれば、あれは確かに溺れていた。
なんとか足をつけずにプールの端っこへ行くために、両手両足は動かしているけれど、
私は溺れながら25メートルを乗り切るのだ。
私の泳ぎ方は私の生き方に似ている。
泣き言ばっかり言いながら、でも、諦めないから、けっこう人に迷惑をかけたり心配をかけたり、
それでなんとか溺れながらも泳ぎきる。
そうか、私が何かを達成して人に報告したとき、「よかったねえ」と心から人が言ってくれるのは、
それだけ人に心配をかけているんだ。

ともかく、泣きながらでも、顔を水につけられるようになり、
息継ぎを覚えて、もたもたしながら泳げるようになった私は、
次に飛び込みを覚えるときがやってきた。
ここまで読んでくれた人は、さぞかしそこでも私が足がすくんで大変だっただろうと思うだろう。
ところが違うのだ。
トランポリンやら、木登りやら、高いところへ行ったり飛び跳ねたりすることが大好きだった私は、
飛び込みは、ほかの誰よりも喜びいさんで取り組んだのだ。
頭から飛び込むこと。それだけ守れば、水にあたって体が痛いということもない。
水の中の世界に慣れていたその頃は、
一瞬空中に浮かんで、直後、まるで違う世界の水中へと飛び込むことが楽しくてたまらなかった。
その急激な変化と、自分が一瞬魚になったみたいな気分が楽しくて、
私は、何度も何度も飛び込みを繰り返した。
飛び込んだ勢いで、5メートルぐらい泳ぐ距離を短縮できるのも気持ちがよかった。
そういえば、泳ぎを覚えてからは、潜水が大好きになった。
できるだけ深く潜ってできるだけ長い距離を水底すれすれに泳ぐ。
水の世界には、何か違うものが見えて、何か別の世界にいるようだった。

そうだ。私が苦手だったのは、
空気のある世界と、水の世界のその境目。
だから、顔をつけることから覚える水泳の授業が苦手だったし、
息継ぎが苦手なのだ。
そういえば、大人になって1回だけチャレンジしたシュノーケリングも苦手だった。
水の世界に入ってしまって、水の浮力と抵抗の世界に任せてしまえばもう大丈夫なのだ。

ジェットコースター大好き

2010.2.24

タコさんのすべり台の思い出を書いていて、気がついた。
私のすべり台好きの幼い頃の感覚は、そのまま20歳ぐらいまで続く
ジェットコースター好きにつながっている。

ジェットコースターがお気に入りになったのは、何歳ぐらいだろう。
幼稚園ぐらいの頃は、おばあちゃんと一緒に行く宝塚ファミリーランドで、
一番奥にある「世界はひとつ」、つまりディズニーの真似なんだけど、
その世界が好きだった。
次々と替わる場面、世界各国の風俗を表した展示と動く人形。
その間を、舟で行く。周りに展開される世界の多様さと、美しさに感動し、
そこを舟で行くことの気持ちよさ。
私はその世界に魅了されていた。

そういう移動する乗り物、眼に飛び込んでくる新しい世界、
そういうものに惹かれていた私は、
単純にすごいスピードで滑り降りるジェットコースターも好きだけれど、
やがてちょっとひねりのあるコースターを大好きになった。
「世界はひとつ」の隣に「スペースコースター」ができたのは、
小学校高学年の頃だったと思う。
細長いファミリーランドの一番奥に広がる二つの世界を楽しみに、
毎回遊園地に行くようになったのは、もう中学生になっていた頃だったと思う。
でも、その前に最初の感動を。

たぶん、スペースコースターができたのは、映画スターウォーズ」の影響だと思う。
つまり、宝塚ファミリーランドには、ディズニーランドとユニバーサル・スタジオの
両方の要素があったということ。当時の日本にはどっちもなかったもんね。
で、スペースコースターのすごさは、
全部建物の中で展開するジェットコースターであるということ。
壁面は全部宇宙を模した世界で、なんといっても最初がわくわくする。
暗い世界で短いコースター(4人乗りぐらい?)に乗ると、
最初は上り坂。これは、ジェットコースターものの定番ね。
それで、霧の中が頂上で、そこをくぐり抜ける、つまり異世界に入っていくと
一気に滑り降りる。その周りでは星がきらきら光っている。
めまいの感覚と、違う世界を旅する感覚と、速さ、動いている乗り物に乗っている楽しさ。
そして、周りが暗いことからくる、どこにいるのか分からない不思議さと、ちょっとした緊張。
でも、それは本物の未知の世界ではなくて、遊園地の中の、
決まった軌道を走るコースターだから、安心感もある。不安はない。
当時は、ジェットコースターものの事故なんてなかったから、危ないなんて思わなかった。

もうひとつ好きだったのが、急流すべり。
これは夏に乗るのが最高に気持ちがいい。
人工的に作られた川の中をボートで進む。周りには本物の緑。
宝塚ファミリーランドは木が多くて、散歩していても楽しい場所だった。
気持ちよく滑っていくうちに、ちょっとした流れの速い場所があったり、
ちょっとしたトンネルがあったり、これは速さよりともかく、水の上を滑る楽しさ。
そして、最後に滝のようにザッパーンと落ちて、ちょっと水しぶきを浴びたりする。
そういえば、この丸太を模したボートはふたり乗りで後ろの席のほうが濡れにくい。
やがて恋を意識する年頃になると、前に乗ってくれる彼氏は優しいという話になっていた。


タコの形のすべり台

2010.2.23

おばあちゃんの家の近所に、けっこう広い児童公園があって、
その真中に赤い色のタコさん型のすべり台があった。
それはもう、子どもを誘惑するような感じで、真ん中にトーンとあって、
周りに何があったかも覚えていない。私が見ていたのはタコさんだけ。
もちろん脚のところがくるくる回りながら滑り降りれるようになっていて、
頭の下がちょっとした洞穴っぽくなっている。
そういえば、あの形はジェットコースターに似ている。
暗いところから下を見下ろす感じ。
くるくる回りながら加速度をつけて滑り降りるときの風を切る感じ。
滑り降りた後の爽快感と達成感。
まっすぐ滑り降りるだけのふつうのすべり台じゃなくて、
めまいと変化が味わえる。
しかもタコさんなので、ちょっと異世界の気分。不思議な感じ、物語がある感じ。

そういえば、あのタコさんすべり台はジェットコースターに似ている。

甘いパンより食事パン

2010.2.10

神戸では、メロンパンのことをサンライズって言うって本当ですか?」
と知り合いの編集者に聞かれたことがある。
向こうの友達2人に電話したら、どちらも
「ああ、サンライズね、知ってるよ」と言う。
片方が教えてくれたのは、なんと私が中学時代に愛用していた
カスカードチェーンに、昔から置いてあるというサンライズ。

メロンパンが嫌いな私は、まるで気がつかなかった。
妹はたしか好きで、メロンパンの存在は知っていたけれど、
地元で、本当はサンライズの名前の方がメジャーだとか、
いつも行っていたパン屋で売っていたとか、まるで知らずに私は過ごしていた。

だいたい私は、昔から甘いパンをあまり食べない。
カスカードでは、真ん中にチョコレートの芯が入って、周りをチョコが覆っていて
チョコ好きの私は大好きだったけれど、それは例外。
私の子どもの頃は、パン屋のパンといえば、
やわらかいバター入り生地に、ジャムやクリームが入ったパンに、
パイ生地で、カスタードクリームが入って、いちごや缶詰フルーツがのった
デニッシュ類の全盛期。
子どもは、そういう甘いパンが好きなもの、と思われていた。

ところが、私は小さい頃から、なぜかこの手の甘いパンをこのまず、
もっぱら、クロワッサンだとかバターロールといった食事パンばかり食べたがった。
フランスパンも大好き。ラスクならたまに食べるけど、
でもどちらかといえば、ベーコンが入った方がいいなあ。
甘いお菓子はもちろん好きで、ケーキもクッキーも、さっき書いたようにチョコも大好き。
でも、朝ごはんにパンを食べていたせいだろうか。
パンは甘すぎないのがよかった。
甘いパン、そうねえ。アンパンとかぶどうパンぐらいかなあ。

なんだろうね。子どもってこう、という大人の思い込みは意外にあてにならない。
私は子供だましみたいな甘いパンはいやで、
大人がパンを置くトレイを手に「まりちゃん、このパンどう?」と聞いても
いやいやと首を振って、プチパンやらバターロールをほしがった。
パンはパンらしく、お菓子みたいじゃないほうがいい。

味覚は大人が身につけさせると言う。親が与える食事、給食の味。
でも、それだけじゃなく、子どもはその子なりの好みが最初からあるような気がする。
そういえば、わが家で妹を含め3人はコーヒー好きなのに、私は小さい頃から紅茶が好き。
みんなすき焼きのときは卵を入れるのに、私だけはあのにゅるっとした生卵の感触がきらい。
私はお酢の強い匂いが苦手で正月の酢レンコンを避けたけど、
妹はお酢が大好きで、母親が作ったドレッシングサラダの底に残ると、
わざわざ飲んでいたぐらい。

生卵嫌いはたぶん、卵かけご飯を自分の定量以上に食べてしまったせいだと思う。
ある時期まで私は卵かけご飯が大好きで、親が教えてくれた食べ方をせがんで、
何度も何度も食べさせてもらった。
ところがあるとき、突然に卵かけご飯が嫌いになったのだ。本当に突然に。
きっと、それは定量を超えたのだと思う。そこから、私は生卵や半熟卵が嫌いになった。

逆に、どうしても食べられなかったものが、あるとき突然食べられるようになることもある。
小学校に上がった頃、私は給食に出てくるコンソメスープが大嫌いだった。
給食は、絶対に残しちゃいけなくて、ぐずぐず食べていると、
みんなが掃除している真ん中で独り残って食べないといけない。
そういう屈辱はまっぴらだったから、必死で食べたけど、
むせかえるような野菜のニオイに気分が悪くなって、トイレで吐いたこともあるぐらい。
それなのに、3年生を過ぎると、コンソメスープが出てきても平気で食べられるようになった。
その後はあの金色のスープが大好きになり、
高校時代にパートに出ている母親の代わりに料理を作らされたときは、
定番のようにコンソメスープを作っていた。

大人になっても、突然食べられるようになるものはある。
慣れと、体験?おいしいものに出合ったから?
でも、子どものときの、不思議な変化は自分でも、大人も分からない。
好き嫌いが多くて野菜が大嫌いだった幼児期を過ぎて、一通り何でも食べるようになった自分の
好みが変化した瞬間を、もっと覚えていたかった。

怖い、こわい怪談

2010.1.21

小学校1年生の冬、両親が一戸建てを買って引っ越した。
学校にも慣れて、新しくできた友達との帰り道、初めて怪談を聞いた。
テレビの「まんが日本昔ばなし」も好きだったし、
母親が読み聞かせてくれた分厚い本『日本昔話』も大好きだった。
でも、そこに出てくるのは、
桃や粘土や竹やら不思議なところから出てくる赤ちゃんを育てるじじばばや、
一寸法師、鉢かづき姫など、修練の時期を経て大金持ちになる賢い若者、
あるいは、正直者と張り合ってすべてをなくしてしまうじじばば。
子どもとじじばばが主役の教訓話だった。
私が読み取ったのは、善人は幸せになれるということ。

いわゆる昔話の悪役は、さっさとやられてしまう脇役。
その人達の気持ちは分からない。
というか、主役の善人たちも、「幸せに暮らしましたとさ」としか書かれておらず、
そこに気持ちはやっぱりない。

でも、怪談は違う。
そこには、子どもの私には想像もつかないような
どろどろした人間の生の感情があふれている。
愛情のもつれ、報われない者の悔しさ、恨みつらみ。
何しろ、死んでもなお気持ちを残して、この世とあの世の境をさまよい続け、
生きている者と関わり続けようとする幽霊と、
死んでも死に切れずに出てくる幽霊につきまとわれる人間の
これまた耐え難いほどの苦しい関係が描かれている。

こうあるべきという理想と願いを込めた昔話に親しんでいた私は、
そこで初めて、ナマの人間が抱える情念に出合う。
番町皿屋敷。四谷怪談。
特に、目を腫らして醜い顔になってしまったお岩さんは、
その後しばらく私を悩まし続けた恐ろしい幽霊だった。
何しろ、その友達はこう言ったのだ。
「お岩さんは、絶対に呼び捨てにしちゃいけないんだよ。
呼び捨てにしたら、100回謝らないと、化けて出てくるんだから」

ダメだと言われるとやりたくなるのは、人間の常。
私はそれを言われると、強迫観念みたいに
「お岩…さん」「お岩」じゃない、「さん」と、
こころの中で何度も呼び捨てしそうになっては、慌てて「さん」付けをして怯えていた。

物語を想像することが大好きだった私は、
恐ろしい怪談も、いつものように想像をたくましくして、
幽霊の姿をこころの中で作り上げ、その姿に怯えきっていた。
あの時期は、毎晩のように怖い夢をみた。
いまだになぜか覚えているのは、とろけかかったチーズスティックに手足が生えていて顔があるお化け。
この想像は、「アルプスの少女ハイジ」のチーズへの憧れと、
「セサミストリート」のモンスターたちや「ひらけポンキッキ」のムックとかがごっちゃになっている。
今考えればむしろ可愛らしい造形のお化けたちが、私に襲いかかってくる。

もちろん子どもなりに対策は考えた。
怖い夢をみた翌朝、母親に「お化けの夢をみて怖いから、ママのところで寝てもいい?」と聞いたのだ。
マンションで暮らしていた頃は家族みんなで同じ寝室に寝ていたのが、
一戸建てに引越して、私と妹は子ども部屋を与えられ、
二段ベッドの上下に分かれて寝るようになっていた。
母親は「そんなの本当にいるわけないでしょ。怖くないから大丈夫よ」と一蹴した。

そんな一言で私の恐怖は薄れなかった。友達は幽霊がいると言っていたし、
万が一、本当に化けて出られたら恐ろしい。
何より、寝ている時の夢までコントロールなどできない。
現実世界にたとえお化けはいなくても、夢の中には毎晩いるのだから。
その頃の私は、ともかく夢をみたくない一心で、
夜、電気を消すとすぐに泣きそうだった。
あまりにつらく、思いつめて、毎日楽しそうに過ごしている友達をうらやみ、
「私は他の子になりたい」「私じゃない人になりたい」と願ってばかりいた。

怖い夢は今もたまにみる。
幽霊はさすがに出ないけれど、朝目が覚めたときに、
恐怖心は強く残っていて、落ち着くまでしばらくかかる。
怖い、恐ろしいという感情から逃げ出すには、
その感情にとらわれないで、冷静になるしかない。
あの恐怖に取りつかれた期間、たぶん1ヶ月もなかったと思うけれど、
「お岩さん」にこだわらないでいられたらよかった、
と思うのだけれど、それこそ「他の子」だったらそれができたのかどうか。

これを書いていて分かった。
怖い気持ちには、そこに立ち向かおうとして囚われるのではなく、
無視してやるのが一番のお化け退治法なのだ。

逆上がりのコツ

2010.1.12

校庭遊びの定番は、もちろん遊具を使ったもの。
低学年のときは、真っ先にジャングルジムに登って、シーソーして、滑り台を滑って
登り棒によじ登って、タイヤを跳び越えて。
運悌も大好き。
登っておりて、走って跳んで。
教室で45分間座ったあとだから、体を動かせるのがうれしくてたまらない。

そんなことをして、鉄の棒を握って遊んでいるから、
手のひらにマメがいくつもできて、鉄の粉がこびりついて、そして鉄臭くなる。
たった10分しかない休み時間を、よくあれだけ夢中になって遊べたなと思う。

ひとつだけ、校庭の遊びで切ない思い出がある。
小学校の半ばぐらいだろうか。鉄棒は体育の授業でも使われる。
前回りと逆上がり。体を倒す勢いで回れてしまう前回りは大丈夫。
問題は、逆上がりなのだ。逆上がりがなかなかできなくて、
何度も何度も地面を蹴って、前回りとおんなじに勢いで回ろうとするんだけど、
自然な運動方向と反対に向かって体をコントロールしなければできない逆上がりは難しい。
むなしく地面を蹴って、もう一度上げたばかりの足が地面に戻るのを虚しく感じた経験は、
きっと多くの元子どもが体験していることだろう。
私も、不器用な子どもらしく、授業中に何度も何度も挑戦しては挫折していた。

そういう「できないこと」に私の母は厳しかった。
「できるまで帰ってきたらいけません」とでもいわれたのだろうか。
私は、母にしかられるのが怖くて、夕方もう寒くなってきている校庭に一人残って、
何度も何度も、何の工夫もしないで、ただひたすら両手で鉄棒を強く握りしめて
繰り返し足で地面を蹴って、逆上がりに挑戦していた。

右手のひらの左下部分が、2センチぐらい、ずるりとすりむけたのは、何度目だったか。
その日のうちに、なぜか急に、本当にコツも何も分からないまま逆上がりはできるようになった。
でも、そのうれしさも達成感もなく、ただすりむけた手がズキズキと痛んだ。
母にそのことを訴えても、大した反応はなかったに違いない。
私の中には、ただひたすら皮がむけた辛さだけが記憶に残っている。

私は、何かと難しいこと、苦手なことを、ぐずぐず言ってやりたがらない子どもだった。
水泳もそうだった。顔をつける、ということがなかなかできなくて、
先生に「もうしんどい」と訴えて、みんなが挑戦していることを、なんとか自分だけ免じてもらおうと、
すがるような目を向けた。
もちろん、先生もそんな生徒には冷たい。
「みんなやっているんだから、あなたもがんばりなさい」としか言われない。
最初のうちは、顔を洗うようにして表面だけぬらしてごまかしていたが、
やがて、竹の棒を水面すれすれに伸ばした先生から、「みんなこれを順にくぐりなさい」と言われると、
もうごまかしようがなく、何しろ、本当に水面すれすれで、顔をつけないことには、その棒はくぐれないので、
どうにかこうにか、水に潜るようになった。

自転車もそうだった。
三輪車からコマ付き自転車、そして、片方のコマを外し、両方のコマを外し、
子どもは自転車に乗れるようになる。
それも、言葉ではなんとも説明しにくいコツをいつのまにか身につけるのだが、
私はなかなかそのコツがつかめず、何度も転び、自転車が倒れ、怖い思いをした。
そんなある日、コマ付き自転車に乗ったおばさんを見かけた。
大人でコマ付き自転車に乗っているという姿を見たことは印象に深く、
「私は一生コマ付きでいい」と強く願ったものだった。

でも、ともかく、子どもが覚えるべきことを覚えないということは許されないので、
私はその後も練習を続け、ついにコマなしでスイスイと自転車をこげるようになった。
このときは、その風を切る気持ちよさをしっかり記憶に残している。
そして、今、私は毎日のように自転車に乗り、自転車がなければ手に入らない楽しみをたくさん持っている。

快感。お后役のお楽しみ会

2009.12.29

小学校では、学期の終わりにお楽しみ会という
クラス単位の学芸会があった。
そこでは、当時はやっていたドリフターズのものまねだの劇だの上演する。
私が「白雪姫」のお后役に立候補したのは、4年のときだったと思う。
悪役をやりたくてたまらなかった。
もちろん、その年頃の憧れはお姫様と相場が決まっていたから、
一番の悪い人で憎まれ役のお后を志望したのなんて他にはおらず、
すんなり私に決まったのだったが、
周りの子たちは「え、ほんとにお后でいいの?」と心配してくれたのだった。

私は悪役をやりたかった。
白雪姫を呪い殺そうとするお后をやって、
思う存分悪態をついて、人を憎む役をやりたかった。
上演が終わって、思いきり悪いお后を演じた後の爽快感といったらなかった。
ふだんは言っちゃいけない人の悪口も思う存分いえるし、
もちろん本当にやるなんて考えられない、人を殺そうとする役を演じられる気持ちよさ。
母のよい子を、その後も何十年演じ続けた私にとって、
この10歳の悪い子役は、本当に気持ちが良かった。
その後、中学校に入って、演劇部に入り悪役を志望したが、
「元気なおしゃべりな女の子」と思われていた私には、そういう馬鹿で明るい役しか回ってこなかった。
私の中には、どろどろしたものがたまっていて、
ときどきマグマのように噴出して、人を傷つける、そんなことが続いた。
でも、攻撃の矛先は自分に向けられることが多くなった。
それは後に深刻な事態を引き起こすのだけれど、
当時の私には、自分のドロドロがどんな怖い可能性を持っているかなんてわからなかった。
何をため込んでいるのかも分かっていなかった。
ただ、お后のような悪役を、もっと日常的に演じられたらどんなにいいだろう。
悪い魔女の役をやりたい。
思いきり誰かの悪口を言ってみたい。
そんな気持ちの持っていき場は、でも実際にはほとんどなかった。
子どもはみんな元気な子。子どもたちは天使。
そんな勘違いが、大人たちの間で広まったのは、あの時代からだったのかもしれない。

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